| ◆ 石原裕次郎と語られることのなかった「男の物語」 | 2009.10.9 |
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「カゴに乗る人かつぐ人、そのまたワラジを作る人」というコトワザがあります。 その「ワラジを作り続けた」ある男、の話をします。 夜空にまばゆい光を放つ「星」として、芸能界のスターを輝き続けさせるために、 自からを漆黒の「闇」と化して支え続けた「男の物語」でございます。 男の名前を樋泉優(ひいずみ まさる)といいます。 戦後日活が本格的な活動を再開した1954年、早稲田大学を卒業した彼は 「一期生」として採用され日活に入社しました。 樋泉が日活を選んだ理由は単純でした。 「大好きな映画をタダで見られると思ったから」でした。 樋泉は東京の下町に生まれました。父親が三菱系の企業の役員をしている 比較的経済的に豊かな家庭に育ちました。その父親が大の映画好きで、 戦後まもなくして再興された地元浅草の映画街に、休日ともなると必ず 三歳年上の兄と一緒に映画を見に連れて行ってくれたのでした。 高校、大学と進むころには休日に関係なく今度は樋泉一人で三日に一度は 映画館通いをするほどの「映画狂」になっていました。 日曜日には必ず映画館のハシゴをしました。 当時は映画館で二本立てが主流でした。 年間に400本近い映画を見て飽きることはありませんでした。 浅草の映画館のモギリの間では知らぬ人とていない評判の 「映画青年」でした。 そんなドップリと映画ズケの毎日を送っていた樋泉青年にとって、 大学を出て映画会社に入社する、ということはウナギや鮭が海から戻って 川に帰へってくるような自然なことでした。 その樋泉が石原裕次郎と初めて会ったのは1956年のことでした。 樋泉は入社三年目でありましたが「俳優課長」という撮影所では それなりの立場に就いていました。 多くの有為の若者が戦死して日本国中の人材が払底していた時代、 でございました。できる能力さえあれば年齢を問わず人材を登用する、 そうしたダイナミズムが社会に溢れていました。 初出演映画となった「狂った果実」の撮影のために調布の撮影所に プロデューサーの水の江瀧子に連れられて来た裕次郎を紹介されたのが 初対面でした。 「石原裕次郎です、よろしくお願いします。」礼儀正しく 90度に腰を折って頭を下げ、裕次郎はまっすくに目を向けてきました。 樋泉はそれ以前、噂になっていた「太陽族」なる無軌道な生態の若者に 「不快」な先入観を持っていました。が目の前にいる青年は噂と違い、 礼儀正しくさわやかな笑顔を持っていました。 それまで樋泉は俳優課長として多くのスターやスター候補生といわれる 映画俳優を見てきましたが、裕次郎にはそれまでの誰れにも感じたことのない 「トキメキ」を覚えました。 裕次郎を目の前にして、まるで素人のように「俳優課長」である樋泉の顔が ほんのりと赤く染まりました。樋泉は「この男はとんでもないスターになる」 と直感しました。一遍で裕次郎の魅力の「虜」になりました。 樋泉の予想通り、それからの裕次郎の人気と活躍はめざましいものとなり、 日活そして日本の映画界を代表するスターとなりました。 裕次郎の人気とともに樋泉の仕事も多忙を極めるようになりました。 本来の「俳優課長」という役職とは別に、新に設けられた「裕次郎課」の 課長の職を兼務するようになったからです。「裕次郎課」というのは 樋泉が会社に頼んで設けてもらったものでした。 あの初対面のとき以来、樋泉は完全に裕次郎の魅力の「捕らわれ人」となって、 24時間のすべての時間を裕次郎と一緒に過ごし寝食を共にするように なっていました。 当然のように他の俳優からの「俳優課長のクセに何をしている」との 妬つかみ半分の批判にさらされるようになりました。 しかし裕次郎の魅力に魅せられてしまった樋泉にとって、 他の俳優の存在には全く興味を持てなくなっていました。 樋泉は自分は裕次郎をスターにするために生まれてきたに違いない、 とそう本気で思い込んでいたのです。 「裕次郎に専念するために」と樋泉自からが会社に申し入れて 「裕次郎課」を創ってもらいました。 会社側は「裕次郎課」設立することを条件に、 それまで通りに「俳優課長」の仕事も果たすことを求めました。 「裕次郎教」の信徒代表となったかのような樋泉でしたが、 他の俳優からも大きな信頼を得ていました。なにごとにも骨身をおしむことなく とことん尽くし抜く、そうした俳優たちへの裏方としてのひたむきな仕事ぶりが 俳優たちから絶大な信頼を得ていたのでした。 樋泉は裕次郎を名実ともに日本一のスターにするために、 昼夜をたがわずそれこそ粉骨砕心、獅子奮迅の働きをしました。 「日本一」の使命に、命がけで燃えたのです。 樋泉はそのとき若冠27歳、働き盛りでありましたが、それにもまして 「男盛り」でありました。当時の「裕次郎」の人気は只今のSMAPを 五つ束ねたほどに絶大なものがありました。 裕次郎の映画が公開された日の映画館の周辺は二重三重の観客の波で 埋めつくされました。映画館の場内も大入り満員、扉を締めることが 出来ず開いたままの上映となることもしょっちゅうでした。 そして本編での裕次郎の登場となりますと老若男女入り乱れての 大拍手喝采となるのでありました。さながらWBC決勝の対韓国戦で 10回裏ツーアウト、1、3塁でイチローの登場、といったアノ興奮と 感動のような場面がスクリーン上で繰りひろげられたのでありました。 国民的スターの裕次郎への熱烈な女性ファンのアタックぶりは、 猛烈なものがありました。 地方のロケ先で宿泊する宿では仲居のお姉さんまでを巻き込んでの、 アノ手この手の攻勢にさらされたものであります。 そうした状況下で樋泉にその気さえあれば、 それこそよりどりみどりの美女たちと、 一夜のアバンチュールを楽しむことなどいくらでも可能でした。 また当時の映画俳優たちは、そうしたロケの旅先でのファンの女性たちとの 「交歓」を当然のように楽しんでいる風潮がありました。 しかし樋泉は自分がファンの女性に手を出すことで裕次郎の名誉が 傷つくことがあってはならないと、かたくなにそうした関係を 一切持つことがありませんでした。女性に対するあまりの堅物ぶりに、 「ホモ」の噂が立ったことがあったほどです。 真相は「裕次郎の名誉」を守るための「女断ち」でした。 樋泉は生涯独身を通しました。 樋泉は裕次郎のどんなところに惚れたのでありましょうか。 「裕次郎命」と裕次郎に人生を捧げた男ですが、 裕次郎の魅力をあからさまに他人に語ることはありませんでした。 あるファンが歌が好きと云えば黙って微笑み、映画が好き、顔が好き、スタイルが好き といえばそれぞれにうなずいて満足そうに静かな微笑みを見せていました。 「全部が大好き」樋泉こそ、裕次郎の世界一のファンであったのでした。 樋泉の裕次郎の人物像は「人にとてつもなく優しい人」でした。 あるエピソードがあります。「男が命を賭けるとき」(1959年、日活) の映画で九州の門司にロケに行ったときのことでした。 強行スケジュールのロケで幾夜かの徹夜が続きました。 ようやく撮了となって撤収が完了し、一足先に宿に帰へっていた裕次郎 を追って樋泉がホテルのロビーに到着すると、一人の妙齢な女性が近づいてきました。 「この世の最後のお願いに来ました」 思いつめたように女性は告白しました。 「不治の病いに犯されて余命いくばくもない体です。せめてこの世の思い出に 裕次郎さまの生のお顔を拝見させていただけないでしょうか」 女性には鬼気せまるものがありました。 裕次郎の室に行くと、このところの徹夜続きで疲れて グッスリと寝入っている筈の裕次郎が目を覚ましていました。 樋泉は叱られることを覚悟でことの「いきさつ」を裕次郎に話しました。 裕次郎は人の話を疑う、という性分の持ち合わせのない人でした。 「分かった、しかし俺が起きていてその女性と何か話せば、 のちのち何か困ったことが起こることがあるかもしれない、 俺は寝ていることにするからその寝顔を見てもらいなさい」 裕次郎は樋泉に指示をしました。 樋泉はロビーにとって帰って、その女性を裕次郎の室に招き入れました。 枕元のスタンドのほの暗い明りに照らされて、裕次郎の寝顔が見えます。 女性は裕次郎の寝顔をジッと凝視して、ハラハラと涙をこぼしました。 声にはならない声を押し殺し、泣いていました。 裕次郎は、と見れば熟睡している演技をしています。 さすがにマブタも微動だにせず、規則正しい寝息さえたてているのでした。 樋泉は一ファンのために徹夜続きの疲れた体を厭わず、迫真の演技を見せている 大スターの優しさを眼の前にして心から感動しました。 二、三分の時間が過ぎた頃「ありがとうございました」と女性は樋泉と 裕次郎の寝顔に深々と頭を下げ室から出て行きました。 それから二ヶ月程経った頃です。樋泉のもとへ美しい毛筆で樋泉と裕次郎の 二人の名前の宛先を書いた白いぶ厚い封筒が届きました。 喪主となったあの女性のご亭主からの手紙でした。 そこには妻がいまわの際までお二人にくれぐれもよろしく、と感謝を 申し上げておりました、とお礼の言葉が綿々と書かれてありました。 裕次郎は下の者には「熱く厚い男」でした。ロケ先や銀座などに飲みに行っても スタッフが車の中で一人でも待っている人間がいるのを嫌がりました。 全員で飲み喰べてこそ楽しい、と体育会系のノリが大好きでした。 撮影所に行くとまず守衛に「おはよう」と声をかけます。 照明、音声、小道具、美術のスタッフの室に現われて 「今日もよろしく」と、あげくは食堂のまかないのおばさんのところまで 自からが率先して行って挨拶して歩きました。 現場で大道具が荷物を持っているのを見ると、 駆け寄って手を貸しては手伝うのでした。 そして最後に監督のところへ挨拶に行く、 が裕次郎の撮影所でのローテーションでした。 のちに石原プロが倒産の危機から甦ったとき、それまで石原プロで 頑張ってきた社員で家のない人間に全員家を建ててプレゼントしたことは、 裕次郎の下の者に「熱くて厚い」生き方を象徴する出来事として、 よく知られているところでございます。 「俳優課長」と「裕次郎課長」との二足のワラジをハいて忙しい日を送り、 アッという間に6年の歳月が過ぎ去りました。 ある日社長の堀久作から社長室に呼ばれました。社長室へ行ってみると、 社長の机の上に見なれた達筆な字で(退職願い)と書いてある白い紙が 置かれてあるのが見えました。 裕次郎の字でした。裕次郎は実に見事に毛筆で字を書くことを得意 としていました。(後に裕次郎がTVコマーシャルに出た折の「松竹梅」の字も、 裕次郎の手によるものです)堀久作が樋泉に向かって言いました。 「これはお前さんの退職願いだ、さっき裕次郎が置いていった。 よって明日からは出社する必要には及ばん、裕次郎のところで働きなさい」 寝耳に水でした。事前に裕次郎からは何んの話も聞かされていませんでした。 裕次郎はそんな男、でした。 樋泉にとっては裕次郎の考えは天の声のようなものでした。 裕次郎が自分に何んの相談もなしに書いた自分の退職願いが、 裕次郎の樋泉に対する絶対の信頼の「証」に見えて、 かえって目頭が熱くなりました。 明日からはあの人のところで、命がけで頑張る、心が震えました。 この時期の裕次郎は大きな壁にブチあたっていました。 デビュー以来この年までの7年間で69本の映画に主演しています。 3ヶ月に2本という、今では信じられないほどのハイペースです。 裕次郎の国民的人気が、毎月のように裕次郎の新作を求めていました。 国民の娯楽と夢、生きがいが裕次郎映画となっていました。 毎日毎日が朝から晩まで撮影の連続でした。 あまりの忙しさに次回作も題名と裕次郎が主演であること以外 何も決まっておらず、それでも宣伝のためのポスター撮りと予告編じみた 2、3カットのシーンを先行して撮影する、というハチャメチャぶりでした。 当然のごとく作品の質も慌れたものとなり、映画もワンパターンとなっていました。 そのことに何によりも危機意識を持っていたのは裕次郎でした。 このままでは消耗して駄目になってしまう。裕次郎自身が映画に失望し 演じることに興味を失いはじめていました。 裕次郎は中村錦之介、勝新太郎、三船敏郎といった当時の映画界のスター達と よく4人で集まっては飲んで、映画や趣味のヨットの話、女、ギャラの話題と 盛り上がっていました。 その仲間の一人、三船敏郎がその年の1962年、日本映画を変革する、 を旗印に三船プロをスタートさせました。 裕次郎は俳優は「男子一生の仕事にあらず」を常に広言しておりましたが、 人一倍心の中では映画を愛している俳優でした。三船プロの独立に刺激され、 呼応する形で裕次郎は石原プロを設立し船出したのでした。 そして樋泉は裕次郎に退職願いを出され、石原プロに参加することになったのです。 会社の登記では樋泉は裕次郎と石原プロの共同代表となりました。 固辞する樋泉に裕次郎は 「年上のあなたを部下にしたのでは、俺の男が立たない」 と無理矢理共同代表となることを承諾させられました。 裕次郎とは、そういう男でした。 会社経営の実務に裕次郎は口をはさむことは一切なく、 すべて樋泉に全面的にゆだねました。 企業理念などという小むずかしいことは何も考えませんでしたが 「人の悪口は絶対に口にしない、人にして上げたことはすぐ忘れる、 人にしてもらったことは生涯わすれるな。」 の裕次郎の生き方をいつも念頭において行動することを心がけました。 ちなみにのちに小政と呼ばれている専務の小林正彦は、 この当時はホテルの専門学校を出て日活の天城ホテルに勤務していました。 石原プロに入るのはこの2年後の1965年、トラブルを起こして ホテルをクビになったところを樋泉に拾われ、石原プロに入社しています。 それから7年の年月が流れます。赤坂東急ホテルの13階に、 いまは取り壊されてありませんが「ゴンドラ」というバーがありました。 このバーのカウンターの端の席が裕次郎お気に入りの場所でした。 週に何回かは必ずこのバーの指定席そのイスに腰をおろしてグラスをあけ、それから 銀座や赤坂、六本木にくりだすのが裕次郎の「遊びの儀式」となっていました。 その夜、いつもの指定席のその席に裕次郎の姿はありませんでした。 樋泉だけがボッンと座ってグラスを傾けていました。 遅れて男が店に入ってきて樋泉の隣に座りました。 男の名前は川名博、まだ30歳ちょっと前の青年です。 一級建築士で赤坂で20人ほどの人を使って建築事務所を経営していました。 樋泉と川名が出会ったのは一年ほど前でした。 樋泉がテイチクレコードに裕次郎のギャラの前払いを頼みに行ったとき、 川名がテイチクのビルの改装の商談に来ていて担当者に 「この建築家の先生は大の裕次郎ファンだそうです」 と引き会わされたのが最初でした。 実際川名は裕次郎の大ファンでした。高校生のとき、当時流行していた 手作りの鉱石ラジオを学校に持ちこんで、授業中にイヤホーンを片耳にあてて ラジオを聴いているときでした。イヤホーンから「霧が流れて・・・」のあの 裕次郎の唄が流れてきました。 何んだこれは、とその歌声とメロディーにシビれました。 そのときのゾクゾクした鳥肌が立つ感動は、生まれて初めて経験したものでした。 その時以来、暇さえあれば川名は裕次郎の歌を口ずさむようになりました。 元々歌が大好きで、歌では周囲の人間たちから一目置かれていました。 覚えたての裕次郎の歌を、みんなの前で歌ってみせると ヤンヤの喝采をうけました。 「本物の裕次郎の歌より上手なんじゃないのか」 との声もかかりしました。「東京で歌手になりたい」と本気で思いましたが、 父親が病気で倒れて家業の建設業を継ぐことになり、 歌手になる夢を断念しました。 ですから偶然にあのテイチクで担当者に 「この方が石原プロの社長の樋泉さんです」 と紹介されたときは夢見心地となりました。 あのアコガレの裕次郎のプロダクションの社長が目の前にいる、 感動して場所柄も忘れて思わず裕次郎の歌を口ずさんでいました。 「これは上手だ、本物の裕次郎よりずーっとウマイ」 樋泉は手を叩いて喜んでくれました。 人のよい好人物、川名が抱いた樋泉の第一印象でした。 それからこの一年、どちらともなく連絡を取りあってはおち会い、 メシを喰ったり酒を飲んだり、温泉旅行にいったりとの交遊が続きました。 10歳以上も年上なのに、決して偉ぶることのないおだやかな樋泉の人間性が 川名は好きでした。 実際の裕次郎にも樋泉に紹介されて、三人で何十回となく会い、 盃を上げ朝方まで街にくり出し遊びにくり出しました。 裕次郎は人前ではモノを喰べたりすることを好みませんでした。 そのせいか、他人もまた自分の前でモノを喰うのを嫌がりました。 「俺は舌オンチだから」 そのクセ酒の味にはすこぶる敏感でウルサイ舌を持っていました。 川名が不思議に感じたことは、 裕次郎がなかなか家に帰へりたがらないことでした。 きまって会うと朝までグデングデンに酔っぱらって人事不省となり、 樋泉や川名に担かれるように自宅の玄関にたどりつくのでした。 普通の男なら、帰へるべき家があるのなら、いくら酒好きとはいえ 早目に家に帰へるものです。帰へりたくない家がある、 いわくいいがたき裕次郎の表情に、人には言うことの出来ない 秘密の悲しみを感じとって、暗澹とした気持になったのであります。 その夜の「ゴンドラ」での樋泉の様子は、いつもとは違ったものがありました。 170センチで120キロはある、いつもの海坊主のような容姿の樋泉が、 その夜は小学生のように小さく見えていました。 もともと肌色は浅黒い方でしたが、その日の樋泉の顔は土褐色に ドス黒く沈んでいました。余程疲れているに違いない、 と川名には樋泉がとても可哀そうに思えてなりませんでした。 石原プロのこのところの経営面での悪い評判は、川名の耳にも届いていました。 川名自身、これまで手持ち資金で出来る範囲での応援はしてきました。 金策に飛び廻る樋泉に頼まれて一緒に何ヶ所か、 借金をしに同行したこともありました。 樋泉は10歳も年下の川名を「社長、社長」と呼んでくれていました。 異業多種ながら若くして「社長業」をしている川名を一目置いて 何かと頼りにしてくれていました。 樋泉は折れそうになっていた心を懸命になってふんばっていました。 「社長が一緒に借金を頼みに行ってくれるとウマくいくんだよ」 樋泉は無類の淋しがり屋でした。 小樽に「海陽亭」という料亭がありました。 裕次郎の父親の潔が山下汽船の小樽支店長だった時代、懇意にしていた料亭でした。 先代のオカミと裕次郎の父親の潔とは「愛人関係」と噂された仲でした。 そうした因縁から、裕次郎の時代までお付き合いの関係が続いていました。 明日までに5千万円なければ万事休す、手形がおちずに倒産だ、 とせっぱつまると北海道に飛んでは、「海陽亭」の当代の若夫婦に金の無心をしました。 来月は返す、去来月こそは、と言っては金を借り続け、 いつか億をはるかに超える借金ができていました。 今日二千万円、と樋泉と川名が突然訪ずれて頭を下げてもニコニコと笑いながら、 工面した金を目の前に出してくれる実に人の良い若夫婦でした。 宮城県気仙沼に小野良正という男がいました。 日活で役者をしていましたが、父親が死んだため長男だった小野は故郷の気仙沼に帰へり、 家業の土木会社を継いで経営していました。 この男の所にも、二千万だ三千万だと何度も借金を頼みに行きました。 小野は男気のある男でした。天下の裕次郎に恥をかかせるワケにはいかない、 なんなら俺の全財産を全部もって行ってくれていい、 と一度とて断ることなく何千万の金をそのつど用立ててくれました。 (小野は後年、水沢競馬場で自分の持ち馬が優勝してバンザイ、 と叫んだ瞬間、頭の中の血管を切って即死しました。 豪放磊落な小野にはふさわしい最後でした。) 京都の置き屋にも行きました。山口の造船会社にも行ったことがあります。 ヘエ、こんな所にと思うような全国の色々な場所に裕次郎を応援する人達がいました。 「俺はもうビルから飛び降りて死ぬしかない」 樋泉はポツリと云いました。これまでの樋泉の狂ったような金策の日々を 知っている川名には、言い返す言葉がありませんでした。 特にこの年、三浦雄一郎のエベレスト滑降を撮った映画が、 タイアップしたテレビ局の裏切りにあって先にテレビで放映されてしまい、 映画の興行収入が全く入らなくなって致命的な損失を出していました。 いっときは虎ノ門に事務所を構えて80人の人間を擁していた石原プロモーションも、 もう何年も社員に給料が払うことが出来ずに社員は一人去り二人去りして残るは 12人だけとなり、調布の撮影所の近くの空地に建てたプレハブ小屋への引越しを 余儀なくされておりました。 プレハブ小屋の中にはスチールの机が四、五個あるだけで他に何もありませんでした。 撮影機材の売れるものは全部売り払いお金に換えていました。 裕次郎の300坪の成城にある豪邸も五重六重の抵当に入っていました。 夫人のまき子も貴金属から洋服まで全部手放して、 金にできるものはすべて金にして借金払いに使ってしまっていました。 お金がないからもう一ヶ月も美容院に行っていないの、とまき子は淋しく笑うのでした。 石原プロの全部が完全にやりくりがつかなくなって底をついていました。 心労から裕次郎は結核を発症して、熱海にあった慶応病院に入院していました。 もうどうにもこうにもならぬ状態に追い込まれていました。 そして明後日には、3億6千万円の手形の決済がせまっていました。 「俺は死ぬのは怖くない、でも裕次郎の顔に泥を塗ってしまうのが死ぬよりつらい」 と樋泉はオイオイと声を出して泣き出しました。 有線から裕次郎の歌が流れていました。 「この歌の映画を撮りに行ったあの頃を思い出すな・・・」 樋泉はグラスに注がれた酒を涙とともに一気に飲みほしました。 涙の鼻水が糸を引くようにツーと流れて、カウンターの上に水たまりを作りました。 川名はこのままだとこの人は明日本当に死ぬだろう、と思いました。 川名には一つ考えがありました。「ヒーさん」川名は樋泉のことを 普段はそう呼んでいました。 「裕さんにテレビのCMに出るように説得できないだろうか」 樋泉は首を横に振りました。 「裕さんは根っからの映画屋だ、テレビに対抗する意地で ここまで頑張ってやってきている、その裕さんが絶対に ウンという筈がないよ、駄目だ・・・。」 樋泉は全部をあきらめかけていました。 「ヒーさん、最後に儲けてみよう、明日朝一番で熱海の裕さんのところに行って 頼んでみてくれ、命がけで頼んでみるんだ、そして裕さんがOKしてくれたら すぐ電話をかけて知らせて欲しい、あとは俺がなんとかする」 樋泉は川名の顔を涙を目にいっぱいにして見つめました。 「そうか、社長、そしたら・・・本当になんとかしてくれるんだね」 翌日の昼すぎ、熱海の駅から川名のもとへ樋泉からの電話が入りました。 「社長、裕さんが・・・裕さんが・・・OKしてくれたよ・・・」 電話口で泣きさけぶ樋泉の声が聞こえました。 川名は樋泉に「あとは俺がなんとかする」といったものの、 確実なアテがあったワケではありませんでした。 ただ地元選出の代議士で経済通といわれた愛知揆一に頼めば なんとかなるかも知れない、と予感めいたものを持っていました。 樋泉が熱海から帰へると、一緒に愛知揆一の国会の議員会館の事務所に行きました。 川名の父親は仙台の地元で、愛知揆一の後援会の幹部をしていました。 父親が元気なときに何度か一緒にこの事務所を訪れたことがあります。 何人かの見知った議員秘書の顔もありました。 突然のアポなしの訪問でしたが、 議員秘書は川名が地元の有力者の息子であることを知っていて、 応接室で代議士を待つことを了解してくれました。 その時は丁度国会の開期中で、キッチリ5時間待たされました。 樋泉はヒザに手を置いたまま、まっすぐに背を延ばした姿勢を 崩さず五時間、そのままの姿を保ち続けて待っていました。 樋泉という男はいつもそうでした。自分は裕次郎の代貸しだから、と どんなときでもスキを見せてだらしない姿を見せることない男でした。 深夜に近い時間、ようやく愛知揆一が国会から帰って来ました。 あらましの事情を聞くと、それならこの人を紹介しようと自分の名刺の裏に 「大槻文平殿へ」(のちの日経連の会長)と紹介状を書いてくれました。 決済日は明後日にせまっています。時間がありません。 翌朝九時キッチリに、樋泉と川名は大槻が在籍していた 三菱鉱業セメントの会長室を訪れました。 すでに愛知揆一の秘書から電話連絡が入っていたのでしょう、 大槻の秘書に紹介状を示すと大槻はすぐ面会してくれました。 「事情はうかがっています、紹介状を書いておきました」 と一葉の紙を渡してくれました。 そこには「宝酒造株式会社、大宮殿」とかかれてありました。 樋泉と川名はその足で東京駅に向かい、新幹線に飛び乗りました。 明日の決済の銀行時間の3時まで30時間を切っていました。 京都の宝酒造に着いたのは2時近くでした。あと24時間、 樋泉の背中に冷い汗が流れました。 社長の大宮の室にはすぐ通されました。社長の大宮の姿を見るなり、 樋泉と川名は社長室のジュウタンの上にいきなり土下座をしました。 「御社のCMに裕次郎を是非出演させて下さい。つきましては その出演料3億6千万円の本日の支払いをお願い致します」 やぶから棒の話でございます。 契約書も何も持ってきていませんでした。無礼者!!と怒鳴られて 室から放り出されても仕方がない振る舞いです。 しかし先代の社長の大宮は苦労人でした。 樋泉たちの必死の姿に心を動かされるものを感じていました。 大宮は何も言わずにジッと目を閉じて腕を組んでいました。 当時の3億6千万円といえば、現在の20億に匹敵する大金です。 その金を即答していますぐに出せ、はいかにも無理難題でございます。 その頃の宝酒造の経営状態の方も、かならずしも順調なものでは ありませんでした。先年発売を中止したビール事業でこうむった負債が、 経営に大きな影をおとしていました。 大宮社長はジッと腕を組んだまま天上をニラんでいました。 五分ほど時間がたちました。 「分かりました。お金は出させていただきます」 腰が抜ける、とはあの時のことをいうのでしょう。 樋泉と川名のヒザが同時にガクガクと震えて止まらなくなりました。 大宮は経理部長を呼ぶと、眼の前で3億6千万円の小切手を切るように 指示をしました。すぐに現金化できるようにと裏判まで押してくれました。 大宮社長の前で、樋泉と川名はたまらず抱き合って男泣きに泣きました。 「ヒーさん、これで生きれるね、死ななくていいんだね」 「社長、ありがとう、ありがとう」 傍で大宮社長も、もらい泣きをして泣いていました。 二週間後、裕次郎が台本を書いて盟友宇野重吉と競演した、 「裕次郎、人生とは・・・」 「飲むことよ!」 のあの名シーンを生んだCM撮影が行われました。 そしてテレビでそのCMが流され大変な人気を呼ぶこととなりました。 このCMの成功により宝酒造の「慶びの酒、松竹梅」は慶祝贈答酒部門の No1の地位を獲得し、宝酒造発展の礎となったのでありました。 今日では宝酒造=宝ホールディングスは当時の約20倍の連結売上 1900億円以上を誇り、バイオの分野まで進出する 超一流企業に変貌を遂げております。 先代大宮社長のあの場面での命をかけた必死な人間への優しい思いやりの心が、 人を生かし、また自からも生きる道を開いたのであります。 「情は人の為ならず」とはよく云ったものでございます。 人を動かすのは損徳勘定ではない、岩をも溶かす熱き情熱なのだ、といいますが 「情熱あるものといえども、真にその情熱を寄すべき人に遇うことは難い」(島崎藤村) ともいわれます。その意味でも宝酒造社長室での大宮社長と樋泉らとの邂逅は、 日本経済のサイドストーリーにとどめておきたい心に響く「名場面」 でございます。 その後石原プロもまた、宝酒造とのタイアップで「太陽に吠えろ」をはじめとする テレビシリーズに進出し、大きな成功をものにすることとなるのは ご案内の通りでございます。 石原裕次郎が逝ったあと、石原プロには約50億の現預金が残ったといわれています。 1990年、石原裕次郎が逝って三年後、樋泉優も後を追うように亡くなりました。 持病の腎臓病が悪化したため、と伝えられておりますが、 本当の死因は不明です。 川名は樋泉が死んだことを、いまでも信じることができません。 ある日、突然樋泉は川名の前から、何も云わずに姿を消してしまったのです。 「俺は象のような死に方をしたい、死ぬときは 誰れにも知られることのない場所に行って死ぬんだ、だから俺を絶対に捜さないでくれ」 何にかあるごとにきまって樋泉が川名にいっていた言葉でした。 川名はいまでもときどき夕暮れどきになると、 赤坂通りの地下鉄入り口の前に立ち、 眼の前にそびえたつ東急ホテルの13階にあった あのラウンジあたりを見上げることがあります。 樋泉と裕次郎が仲良く並んでグラスをかたむけながら手を振っている姿が、 川名の目にはいつもハッキリと見えるのです。 これまで石原裕次郎の物語りでは決して語られることがなかった、 忘れ去られた男が男に惚れた「男の物語」 でございます。 |